ゴスペラーズ北山さんの再び「歩く」ことから
こんにちは。さらです!
ゴスペラーズの北山陽一さんが投稿していらっしゃったツイートが
前回のブログの続きでもあり、そしてとてもアレクサンダー的だなぁ!と感じたので
今日もこちらの引用からご覧ください↓
まず1件目の投稿から
例えば。気づいたら歩くことができていて「歩く」ということについて解剖学や医学、物理の法則や認知などに基づいて分析したことのない人は、歩きを教えることはできないと思っています。自分の仮説の根拠が自分の身体に関する経験だけの状態で「教える」人がどのレベルでもいる。僕はそれは嫌なのだ。
— 北山陽一 (@yohk) May 10, 2018
歩くことももちろん、普段の生活の中の殆どのことが
「気付いたら」できるようになっていて、自分が自分にどういう指示をだしているのか明確でなくてもやれていることです。
ですが、街中で歩いている人を眺めて頂くとすぐにわかるように、
誰もが特に意識することなくできている「歩く」だけ取っても、みんなやっていることが違うんですよね。
全世界の全員が、それぞれ違う身体と違う経験のもとで気付いたらできていることについて
それを人に教える・人と共有するといったことをしようとする際には、
自分の身体の感覚を繊細に精査すること、事実に基づいた分析の両方が少なくとも必要だと思います。
歩くのなんて教えないよ!という方が殆どですが(笑
例えば歌うこともそれに似ていて、
技術的な面をある程度横に置いておけば、「うたう」ということは子供から大人まで誰でも何となくできることです。
故に、歩くこと同様、自分の感覚やかつて常識とされてきたことだけを元に練習を重ねていくことは
自分にとっても他人にとってもマッチしたことだけとは限らない、という点を知っておくのはひとつ、大切かもしれません。
(他のあらゆることにもいえますね)
さて。2件目の投稿です
ぼくは手術後一度歩けなくなって、脳が「歩く」を思い出す過程を味わうことができました。例えばそこから人体に強い興味を持ち、構造や機能を理解してはじめてスタートラインに立てるのかなと。問題を探し出して理解し、解決へと導くのはものすごくたいへんで、感覚だけでは太刀打ちできない。 https://t.co/o2ZEKOm4M1
— 北山陽一 (@yohk) May 10, 2018
1件目も2件目もアレクサンダー・テクニークに通じるものがあるなと思うのですが
2件目を読んで、あー私の今の学びの過程とすごく近い!と感じました。
北山さんの場合はかつて無意識にやってきたことができなくなったことで改めてその過程を精査なさったわけですが
全ての日々のこと・パフォーマンスでこの過程を再考することが、アレクサンダー・テクニークを学ぶことと大きく重なります。
また、前回のブログに書いたプランを立てることのけっこうな部分がこれに当たると思います。
AT教師は解剖学のプロフェッショナルではありませんが、(解剖学もある程度学んだ)「動き」のスペシャリストです。
考えは身体に影響があり、身体の動きは考えに影響があって、どっちも切り離せないのですが
微細な動きの認知と、動きにまつわる知識・事実、信頼できる感覚認識、意図や思考についての学びetc.を使って
生徒さんの望みに沿ったアプローチをしていくことができます。
アレクサンダーさんの発見である頭と脊椎との関係性を生かしつつ
自身の筋感覚や動きへの認識を繊細にし、客観的事実も含めて
生徒さんそれぞれの論理的で新しい経験を一緒に探していく。
生徒さんはそれを自分でもできるようになっていく。
面白い学びだなぁと、改めて思いました(o^^o)
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