【閑話休題】目的が違うことでの断絶をどうとらえるか

こんにちは。さらです。
今日は私のちょう個人的な感情や考え方のことです。

アカペラをやりながら何年も悩んでいたのですが
歌やアカペラをうまくなりたい人と、なりたくない人がいること
その間でどこか、意識や感情の断絶を感じてしまうこと です。

うまくなりたくない、というのは語弊がありますね。
「私は」アカペラや歌がうまくなりたかった。
で、単にそれとは異なる目的の人がいる(例えば人とのつながりだったり、うたうのではなく聴くことだったり)。
ただそれだけのことなのですが、同じレッスンの場にいたり一緒に練習することになると
途中でうまくいかなくなるんです。

そりゃあそうですよね。
うまくなりたい側と、たとえば交流を目的にしている側とでは
練習するかどうかも時間を割くかどうかも、選択肢も配分も違って当然なんです。

選択を誤認していたのは私で、
アカペラバンドを組む時、一緒にレッスンを受ける時、練習時間の設定をする時、etc...
どんな人でもOKだよーやってみようー!と取れる言い方で人を集めていたんですね。
アカペラ初心者の人でもハモる楽しさを知る場を作りたいという目的はあった場合もあります。
が、ある程度継続する意思で人と音楽をする場合に
仲間の本当の目的が何かは継続にめちゃくちゃ大きく影響します。
それを無視したまま続けていて、
どうしてこの人はうまくなる気がないんだろう?何で時間を作った形跡がないんだろう?また前回の練習の繰り返しか…
とどんどん疲弊していく自分に、周りに、いらだちがつのりました。
(↑もちろん、人それぞれの成長進度が異なること・生活の違いなどは織り込んだ上で、です)

ともすると近しい考えの人と会った時に
「何であの人はうまくなる気がないの!?」みたいな愚痴の会になってしまうことも(苦笑

やっと最近気付いたのは
このモヤモヤは、相手の考えや目的が相手だけのものだと理解すること、プラス
自分が挙手すること、宣言し続けることでしか解消されないかもしれない、ということです。


私はハモれるようになりたいよー歌うまくなりたいよー努力したいよー
と表明することはイコール、私自身の所属するコミュニティを形成していくことだと思います。
コミュニティ、と言うと形のある既に形成されたもののような気がしますが
例えば「気の合うお友達」もコミュニティだし「ATを学ぶ」もコミュニティだし
1人に対して大きさも層もかなり複数、存在して、かつつくり始められるものです。

私は、私の所属しているコミュニティを自分で選んでいる、ということに意識的でいたいし
主体的にいるために(サイズの大小にかかわらず)コミュニティを形成していたい。
ということは、(物理的な話ではなく)手を挙げ続けること、表明することで初めて、
そのコミュニティに触れたい人が集まってくると思うんです。

違う人を拒絶するのではなく、より共鳴する人から見える自分になる。

そしてコミュニティを形成していくことは肯定的なことなので

誰かのせいで…!という否定の思考から離れることができます。

つまり、幸せ(o^^o)


実はこのコミュニティについての考えは以前noteに書き出していたのですが
それを実行していくことが挙手だと、そしてそれは対ひととの関係で行き詰まりを感じたどんな場合にも有効だと
追加的に気付いた今日でした^^

まっさらのさら

アカペラーさら(アレクサンダー・テクニーク教師資格取得に向け勉強中!)の日々の発見・気付きをシェアするブログ。