「努力」は苦しいでしょうか?
こんにちは。さらです。
努力することについて、どんな定義づけをしていますか?
私はアレクサンダー・テクニークを勉強する中で、大きく自分の中での意味合いが変わったものにこの「努力」があります。
どうにも、闇雲に頑張ったり苦しい思いをしていないと「努力した」って言ったらいけないような空気、ないでしょうか?
苦労した人のサクセスストーリー的に、つらくないと努力ではない、というような。
「努力」で辞書をひくと「ほねをおる」という要素が含まれており、「ほねをおる」は「苦労する」を含みます。
苦労する系の要素は確かに強い言葉なんですね。
ところで。私にとって現時点での「努力」はどういう要素が強いかと言うと「試行錯誤」する に近いものです。
建設的に試す、ことかもしれません。
成功しないやり方や不明確なやり方であっても、繰り返し何度もやることで習慣化します。
うまくいかない方法をいつまでもやりたい人なんていないと思うのですが
きつい思いをする要素の強い「努力」は、うまくいかない方法でも数をこなすことでうまくいくのでは
という謎の希望に満ちていることが多々あります。
で、それがいつの間にかスタンダードになり、無意識にうまくいかないやり方をやっている。
それでは時間も体力ももったいない!
さらに、習慣化したものは(神経の仕組みてきに)なくすことができないので、
他の成功するやり方をより強い習慣にしていくまでは発動し続けるというオマケ付きです。困ったー。
なので、より楽に・建設的に・論理的にできる方法がないかと試行錯誤する。
それが私にとって今必要な努力の形だと思っています^^
遠くの大成功のために、近くの簡単な成功からちょっとずつできることを考え、試し、
それを積み上げることで最終目標に近づいていく。
その中で、新しいステップから見えたもの・その段階の自分のためのレッスンや練習で自分に返ってきたものは
ちょっと前の自分の持っているものからバージョンアップしているはずです。
それを利用してまた新しい一段を探す、のぼる、バージョンアップ、さがす、のぼる…と繰り返していくうちに
「努力」の形自体も洗練されていくのではないかな、と思っています。
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