「いやいややっている」?ほんとに?
こんにちは。さらです。
仕事、試験、練習、勉強、家事 etc.
やりたくないんだけど、ちょうしぶしぶやってる、仕方ないからやってる、
むしろ、やりたくないことを後回しにしていつもギリギリで追われている
なんてこと、ありますよね?
でもそれ、本当でしょうか?
例えばですが
仕事、別にやらなくてもいいんですよ。
部署が嫌なら部署を変えてもらう方法はあるし
会社の業態が嫌なら転職したらいいし
今日会社に行きたくないならお休みを取ればいい。
え?そんな簡単にいくかって?
そうなんですよね!
でもちょっと別の視点から見てみると
簡単じゃないかもしれない、自分にとってよりハードルが高い、リスクになることを避けるために
消極的かもしれないけど「選択」「決断」を「自分で」しているんです。
部署を変えてほしいなんて言ったら出世に影響するかもしれない…
転職するほどのスキルを持ってないかもしれない…
今日休んだら誰かに迷惑かもしれない…
→これ、自分の想像です。現実はそうじゃないかもしれないけど、そう考えることを選んだんですね。
勉強でも家事でも根本は一緒です。
試験前にずっとゲームしてて勉強しなかった…受けたくない…
→受けなくても全然OKです。それを決めるのが自分ですもん。受けた場合と受けなかった場合の良い点・悪い点は自分で判断できます。
今日どうしてもお洗濯したくない…明日!明日やるから!
→いいですねー。明日やってもいいし、ひょっとして家族がいるなら誰かに頼めるかもしれないし、ずっとやらないかもしれない(笑
<嫌だけど仕方なくやってる → 嫌なこととそうじゃないことを天秤にかけて選んだ>
本当は後者なんです。
よほど天災のようなことではない限り、自分で全部選んで生きています。
そんなこと言っても、周りの人のせいとかもあるじゃん!って思いませんでした?
私もずっと思ってました。
でももう一度、考えてみてください。
相手の言動から相手の状況や気持ちや思考を想像して判断しているのは自分で
(物理的にけがをさせられたとかではない限り)周りの人間の影響は自分がそう判断することを選んだ結果ともいえそうです。
例えば、相手の笑顔を善意ととるか悪意ととるか、人それぞれですよね。
人が顔を真っ赤にして怒鳴っていても、それを私のせいで怒っていると取ることも、相手が自分で自分の機嫌をコントロールできない結果だし私の感情とは別だと捉えることも、できるんです。
私が判断していること、つまり、私がそう判断すると決めたこと、です。
そうやって、自分の行動だけでなく考えも、いつも自分が選んでいること・自分の責任の範疇だと考えていくと
実は重たくなるどころか色んなことが自由になります。
家族がいるから転職はできない ではなくて 家族のために今の仕事を続けると自分で決めた のだとしたら、
単位を落とすから試験を受けないといけない ではなくて 卒業したいから試験を受けることを選んだ のだとしたら、
練習したくないからサボろう(でも罪悪感…) ではなくて いいコンディションのために今日は思い切って休もうと決める のだとしたら。
視野が変わると「モチベーション」てきななにかも変わります。
「責任」って言うとすごく重たい感じがするかもしれないのですが、
自分の責任の範囲を知らないと周りに責任を求めがちです。
そうすると、自分が100%コントロールすることができない他人の言動に依って影響されることを選んでしまっているので
逆に不自由なんですよね(^◇^;)
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