ジャッジの向こう側
色々あるSNSのアカウントで過去の自分が考えていたことを遡っていたら、
表題の言葉に出会ったのでそのことを書くことにしました。
トライトーンの松永ちづるさんにボーカルレッスンをして頂いているのですが
何年か前に、
アカペラの練習の時に、音が違うとか合わない場合にどういう言葉を使ってメンバーに伝えるのがいいのか悩ましい という相談をしたんだったと思います。
相手がその違いが今はわからない(いつか分かるかもだけど) ということもあるし
言っている意味は分かるけど今ちょっとそれが技術的に実現できない とか
そもそも他人にあれこれ言われたくない とか、複数の場合があるんですけど
いずれの場合でも自分が「音」について気になった瞬間に、
発する言葉を「文句」や「指摘」にはしたくない、それは練習が建設的にならない、と思っていて
だけど、あーこれは間違ってるな、とか、惜しいな、とか、こうしたいな、という気持ちがあって困っています、と。
だって、この瞬間、「違う」って自分は感じてしまっているんです。
その感覚と、どんな言葉を使うかが、うまく噛み合わないんです(泣
というようなようなことを話していて、
先生たちが活動・練習してきた中でこんなことがあったよ、こうするのはどうだろう、というアドバイスをいくつか頂いた中ではっとしたのが
「ジャッジの向こう側の音楽 っていうのがあると思う」というお話でした。
あれ?私のしていることは「ジャッジ」だったのかー、と立ち止まるきっかけをもらいました。
(絶対音感者ではないから)曖昧で感覚的で、自分の中にだけ存在してしまっている微妙ななにか
と感じていたものが
基準のある、判定結果
だったかもしれないことに気付きました。
そしてその「ジャッジ」を一度横に置いといて、その向こう側にある音楽についておもってみるのはどうだろう?というヒントをもらったんです。
(もちろんそれは先生の中の真実のひとつです)。
実際に音が違う場合に黙って我慢しましょう、という話ではなくて
何かしらのモノサシで判定しない音の世界もあるよ、ということだなと。
それを頭のどこかに置いておこう、と当時真剣に思っていたはずなので、
そして、「ジャッジ」をしない というのは今勉強している中でも度々出てくるポイントなので
改めて自分の中で考えるきっかけにできるなと思って、今日は書き出してみました。
ちょっと曖昧になってしまったかもしれません。
いつか「保留」することについても書けたらなぁと思っています^^
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